雲の上のデモンストレーション―― ボリヴィア 6
あらたにふえた観客のなかには、きのうのフランス人の青年の顔もみかけられた。ユンガス峠からせっかくとってきた花材のなかには、水あげをしても生気がよみがえらないものがあった。全体は使えないが、枝の先とか花の一つとかは、まだ生き生きしている。そこで日本人会の奥さまからおちょこや小皿、レストランからはぬりのお盆を借りて、プログラムのなかに「ミニアチュール」を加える。花材の選択は、大使ご夫妻にその場でお願いする。市瀬さんが短く切った花材をお盆にのせて、大使ご夫妻の席に行く。
「どれがお好きですか?」
お二人が「これ」と指さしたものを、器や自分の使っていた口紅のケースなど水の入る小さなものにいれ、小さないけばなにまとめた。それが、花材採集がどんなに大変なことか知っている私たちの、大使夫人への、そしてせっかくとってこられたにもかかわらず、しおれてしまった花材たちへのせめてものおかえしだった。
客席は超満員というほどではなかったが、それにしても前の一部の人をのぞいては、このミニアチュールはよく見えないだろう。きもの姿の市瀬さんに客席のあいだを持ってまわってもらった。私はあらためて大使夫人のユンガスへの花材採集を披露し、お礼を言う。
「お目にかけた小さないけばなもそうですが、この大きないけばなも」
と、水がめの作品をさし、
「ユンガスの木がたくさん使ってあります」
と制作の過程をのべる。
ラパスの人々は、デモンストレーションがはじまると、熱心に、しかも静かに見ていた。手もとに視線が集まるのが私には痛いくらいに感じられた。
私は、第一回目が終わったときに、お茶の席でたくさんの人々が、私に質問をしたことを思い出した。彼らがいけばなを見て、どんな感想をもったか、あるいはどんな疑問をもったか、興味があったか、それは私がどんなところが説明が十分でなかったかを知るうえでも貴重であった。
「何か質問があったらお答えいたしますが……」
デモンストレーションの終わりに、私は言った。「はい」と手をあげたのは黒い髪の三十代くらいの女性だった。前から二番目くらいの席に座っていた彼女は席から立って、こう言った。
「『いけばな』というのは固有名詞なのですか。なぜ、いけばなというのでしょうか」
私は日本語で、「いける」ということや「花」という言葉の意味を説明した。そして歴史的にみると、はじめから「いけばな」という言葉が存在していたのではなく、形や時代によってちがっていたという意味の話もした。
次は、はじめの人より少し年配の、茶色の髪を後ろにたばねている婦人だった。彼女はさっと手をあげ、座ったままで聞いた。
「いけばなで花の色の配置に、何かルールといったものがあるのですか?」
ヨーロッパのフラワーデザインを勉強している人かな、と私は思った。
「別にありません。濃い色が上とか下とかそういうことでなくて、あくまでもほかの花との取り合わせ、自分の判断とバランスの感覚によるのです」
と答えた。
彼女たちの質問は素朴な興味にもとづくものであり、観客も多くないところから、親しくうちとけた集まりという感じがあった。それは第一回目も見たという人が半分以上だったからかもしれなかった。
「日本の宗教といけばなは、どういうかかわりがあるのですか?」
私は仏にそなえた供花が、いけばなの発展に大きな影響を与えたことを説明した。
「花器や剣山などの道具はどこで買えますか?」
第一回目から見ていた婦人だった。恰幅がよく、きれいな花の柄のブラウスが、茶色のスーツからのぞいていたので印象があった。
「花器は何でもいいのです。水が入るものなら。サラダ・ボールでも使えます」
と言ってから、剣山という単語を、私はぐっとのみこんだ。ボリヴィアに剣山はないだろう。私はO氏のほうを見た。O氏は私の視線に気づき、
「サンタ・クルスのような日本人の多い所ではあるかもしれませんが、どうですかなあ。調べてみましょう」
と言い、その婦人にはスペイン語で説明してくれた。
私は、その言葉が終わるとつづけて言った。
「剣山がなくても、いくらでも花をいける方法はあります。ほら、二番目の投げいれがそうですね。あの筒の型の花器に花材をとめました。それから木と木を組み合わせて立てた、あの七番目のいけかたも、組んだ花材そのものが、あの器の中で、他の花材を固定する役目をしています」
夫人たちの多くがうなずいた。
「工夫と創造性が、いけばなには必要なわけです」
「本当にそうよねえ」
彼女たちは、またお互いにうなずいた。
この旅のあとで行ったスリランカでは、コンクリートに針をつめこみ、乾かして剣山がわりに使用しているのを見たことがある。いい剣山がない。日本からは高いばかりでなく、輸入にあたっての税率が高い。そこで彼女たちが考えた末の工夫だった。剣山を使わなくても花をいける方法をできるだけ教えた。
剣山を送るのがてっとりばやい解決にはなるだろう。しかし、それだけだと、いけばなは、それを取り寄せることのできる一部の人たちのものとしかならないだろう。
どうしたら興味深い、その人でなければならない花がいけられるか。それを一緒に考えるときこそ、真の交流がおこなわれると思う。
ボリヴィアのデモンストレーションで、こうして質問をうけることは、またひとつ私に課題を与えることになるのだった。
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