いけばなの中の空間―― チリ 1
以前、人と人との距離ということに関してのべられている本を読んだことがある。そのなかのある章で、相手があなたのことをどう思っているかを知るのは、相手がどのくらい自分に近よって話をするかによる、というくだりがあった。ふだん、漠然と考えているものの、言われてみればなるほどとうなずけた。そこにはまた、アメリカ人と日本人の体の各部分に対する、ふれる、さわる、またはふれられる、さわられる、ということを通してみた、親密度のデータもあり、なかなか示唆に富んでいると思った。
このデータによると、チリの人々はすべてお互いにごく親密な間柄ということになってしまいそうである。
ある朝だった。会場入りが早かった私たちは、それでもあわただしく、手伝ってくださる方々と最後の準備や点検をしていた。入口におく作品を制作しているときだった。会場のことや連絡のことで忙しそうに動いている大使館のJ氏のほうを、私は何げなく見た。
「すみません。奥さんでもいたら何かもっとお手伝いできるでしょうに。ぼく、まだ独身なので……」
スペインのサラマンカ大学出の若い外交官は、飛行場に迎えに出てくれたとき、自己紹介のあとにこうつけたした。そのJ氏の前に、手伝ってくださっているチリの夫人のなかでもひときわ背が高く、恰幅のよいC夫人が立ちはだかり、詰問調ともとれる真剣な表情で、言葉を発し、それに対してJ氏がさかんにうなずいている。きょうのデモンストレーションのこと、たとえばお客さまのこととか、開始時間のことなどで、問題が起こっているのかと心配になった。J氏にそっと聞いてみると、彼は笑いながら、
「ああ、そう見えました? 作品を舞台から下へ運ぶ打ち合わせですよ」
と言う。言われてみれば会話の最後には二人ともニコニコとしていたのだから、心配することもなかったのだ。
チリの人たちは、親しくなるとまるでにらめっこでもはじめようといった近さ、つまり約二十センチくらいの距離で話をするように見える。ペルーやボリヴィアでは、といえば、そんなことはなかったから、はじめ私は当惑した。それでも最初のころは、気をいれて一生懸命相手の眼を見かえしながら話していたが、やがてくたびれてきた。
「そう? 私は別に感じないけれど」
市瀬さんは首をかしげる。旅が三カ国目で、「使節」とか「先生」とかの肩書きを意識するあまり、私の神経も疲れてきはじめたのだろうか、それとも私の声が小さく聞きとりにくいのだろうか。
話をするときは相手の眼をみなさい、目をそらすのは失礼なこと、相手に何か隠しているのかと思われますよ、そう言われながら私も育ってきた。しかしチリなみの距離で話をするのは、恋人同士でもないかぎり、日本ではまずあり得ないことだろう。日本ではどうも相手の眼を見なさいというのは、眼のあたりということであって眼そのものではない感じがする。したがって、“眼のあたり”を見るためには、二人のあいだの物理的な距離が必要となってくる。しかし目の前に人の顔がニューッとあれば、ふつう、人は何のやましいことがなくても冷静さを少し失い、弱気になってしまう。日本人はたとえ面とむかった一対一の話でも、自分の視野のなかにまず第一に相手の顔を、そしてその背景となるもの、景色とか、その場の光景とか他の人々とか、そんなものを知らず知らずのうちに求めているのではないだろうか。日本語のあいさつでも、人と会うとき、まずはじめ「先日はどうも失礼しました」「このあいだはどうも」などといって間合いをとり、すぐには本題に入っていかないのがふつうだが、これも日本人の視野のなかの空間、お互いの関係においての空間と関係があるのかもしれない。絵画でいうならば、空間の部分が人とのかかわりあいのなかにないと、落ちつけないということなのだろうか。
いけばなの中の空間ということでは、外国の人たちになかなか理解してもらえない点がある。たとえば、私たちからみてきれいにバランスのとれている作品ができているとする。空間と枝や花のかかわりあいが美しく、一目見てよくできていると思ういけばななのに、ここの空間がと、その美しさのポイントである空間をさして、ここがさびしいから花をもっといれたいなどと言いだしたりする人がけっこういる。そんなときには、ちょっと待って、落ちついてよく見なさいと言う。また反対に、この空間をいかしたかった、これこそいけばなといって、とても緊張した、ピンと張りつめた空間とは見えないのに、作者が満足げに見入っているということもある。そのうえ「日本の単純化した表現はすばらしい」などと言うのである。いずれの場合も初心者で、けいこに通ううち、だんだん改まってくるのだが。
空間は、造形芸術のみならず「間」「余白」「休止」などと言葉をかえ、日本の表現のさまざまなジャンルのなかに深く根をおろしている。音楽や文字ではとくに、この「間」の意味は重要である。
『源氏物語』のなかで、主人公の光源氏の死は「雲隠」の巻に描かれているはずであるが、実際この巻はいまにいたるまで発見されていないという。おそらくは題名のみの巻で、読者に高貴な人の死をリアルに描かず、暗示をしているのであろうといわれている。日本の余白、空白の深さがみられる。
筆をとる場合、私たちは紙という空間のなかの字の配置、字の終わりと、次の字への入りかたから、私たちはその空間が何であるか、どんな意味をもっているかを知る。「間」はここではたんなる空白ではない。無でもない。
能の場合はどうだろう。
見所(けんじょ)の批判に云はく、「せぬ所が面白き」など云ふことあり。これは為手(して)の秘する所の安心(あんじん)なり……(中略)
せぬ所と申すのは、その隙(ひま)なり。このせぬ隙は何とて面白きぞと見る所、これは油断なく心を綰(つな)ぐ性根なり。舞を舞ひやむ隙、音曲を謡ひやむ所、そのほか、言葉、物まね、あらゆる品々の隙々に、心を捨てずして用心を持つ内心なり。この内心の感、外に匂ひて面白きなり。かやうなれども、この内心ありと、よそに見えては悪かるべし
(花鏡)
世阿弥のこの「せぬ所」というのも空間といえるだろう。外からは空白に見えても演じる自分自身は心を綰いでおけという。いけばなのなかの空間の意味するところとも、どこか共通するところがないだろうか。
「ね、コカ(光加=いけばなでの私の雅号、つまりアート・ネーム)」
とチリの人が私の顔をのぞきこむ。
いずれにしても、チリの人々のこの話しかたの迫力には、気の弱い日本人である私は、ひたすら圧倒されるばかりであった。
親しくなるとこんな話しかたになるというわけだが、この二十センチの距離に接近するにいたる前のことものべておかなければならない。チリの人々は皆はじめからこんな調子かといえば、やはりそうではないからだ。
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