雲の上のデモンストレーション―― ボリヴィア 9
ストライキも終わり、私たちが到着した会場では、もう三人が花をいけはじめていた。きのうのデモンストレーションの様子が、今朝テレビで放映されたということもあって、会場にはどんどん人が入ってくる。
「オラ、オラ」とNさんがマイクテストをする。着がえのすんだ私たちが出ていくと、
「きょうは何点いけるのですか?」
「きょうはデモンストレーション、ないのですか? テレビで見てせっかく来たのに」
という人が多いので、テーブルを持ってきてもらい、きのう使わなかった花器と残った花材で数作をいけてみようということになった。もちろんプログラムも組んでいない。まったくの即興でいけていく。したがって私自身どんなことになるかわからない。
十五、六人の前で、皆と同じ視線の高さで花をいけはじめた。気がつくとテーブルのまわりに人垣がだんだんできてくる。
「前の人は座って!」
と後ろから声がかかる。前に立っている人たちのために、O氏たちが急いでおりたたみのいすを持ってくる。花をマッスにたばねたり、ワイヤーをかけたりする。緊張して行なったきのうのデモンストレーションとは対照的である。意外に早くリズムのようなものまで生まれてくる。一作できあがっておじぎすると、大きな拍手がきた。枝を手にとる。
「この枝をこうして、ただ、まげようとすると折れますね」
実際に枝を折ってみせる。
「手をここにもていって、こうまげると」
枝のまげかたを説明して、今度は折れなかった枝をみせる。
「ウーン」
という反応がある。
「ウノ、マス」
もう一作、という声にこたえて数杯いけていくと、やがて花材もなくなってきた。私がバケツの中の花材をさがしはじめたのを見て、自分で花を持ってきた人たちが、
「コン、ミ、ロサ」(私のバラで)
「あ、ここにも枝があったわ」
「私のもどうぞ使って」
「前に送って、この花を」
と次々に材料を提供してくれ、後ろの人からリレーされてテーブルの上に運ばれる。それを使ってまたいける。だが、さすがに花材もなくなった。
「はい、おしまい」
皆が拍手をしてくれる。
会場には参加者がたったいまいけた作品が並べられている。
「さあ、今度は皆さんの作品を拝見させてください」
各々のテーブルをまわって講評をはじめる。花材は日本の花屋さんで売っているようなものとは様子がちがう。水がさがってしまい、葉がたれ、元気がなくなった菊もいけられている。水あげの方法も細かに教え、なぜそれが必要かも説明する。
この秋の、たぶん最後ではないかと思われるバラも、庭の隅からと思われる野草の頼りないような姿もある。花をいとおしくみつめながら扱っていることが、小さな枝でもおろそかにしない使いかたでわかる。日本でのけいこなら、ごみとして捨てられてしまう切りくずを何度も使う。表現はまだ幼いものの、切ってしまったのだから、何かに使えないだろうか、というように、こちらの心にうったえかける何かが秘められている。きびしい自然のなかだからこそ、とくに枝がすぐ入手できない条件下だからこそ、植物はすみずみまでみつめるという態度があらわれるのだろうか。ここに比べると、花屋で何でも入手可能な日本のいけばなのなかに身をおくものとして、私自身は花材をはたしてこれほどみつめてきただろうか、と反省するのだった。
彼女たちにとって、いけばなをするということは、つまりは自分の身のまわりを改めて見直してみることである。材料の背後に、いけたその人それぞれの物語が秘められていることもよく伝わってくる。しかしまた、彼女たちが自分個人の物語に頼りすぎていけても、はたして花材の魅力を十分にひきだしきれたものになっているだろうか。という疑問も起こってくる。それが今後の課題になっていくだろう。と私は思った。そしてそんな課題がどんどん出てくるようになれば、この人々にとっていけばなはもっとすばらしいものになっていくという思いが強まっていくのだった。
各作品の一番よい点をのべると、それぞれの表情で、いけた人もまわりの人もうなずく。ガラスのかたまりにいくつかの穴をあけた既成のホルダーを使う人もいた。
いけた人数は、わずか二十数名だったが、参加者はその数倍にもなるという講習会だった。
しかし、どなたでも自由に参加してくださいといい、新聞にも発表されたこの催しに、昼に町で会ったインディオの人々は一人も見かけられなかった。日々の生活に忙しいので、いけばなどころではないのだろうか。彼女たちは花をいけることはないのだろうか。私はそのことがとても気になった。花市場で花を売っていたおばさんたちは、自分の家に花を飾るときはどんな花をいけるのだろうか。花は商品であり、手の届かないぜいたく品なのだろうか。大壺を焼いていた竈のまわりの女たちがいける花が見たかった。
公邸でのレセプションは、すべての行事が終わった一夕、なごやかに催された。
高山病なんかにかかり、ご迷惑をかけて……お詫びとお礼を言う私たちに大使婦人は、
「とても楽しかったですよ。この五日間は」
とおっしゃって、慰めてくださった。
高度三千七百メートルのこの地に、いつまた来られることがあるだろうか。もしそんな日が訪れることがあるのだとしたら、そのときに、どんな雲の上のいけばなが、私を迎えてくれるのだろうか。
*一九八二年、ボリヴィアは民政に移管した。
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