変化しつづける芸術― ウルグアイ 2
今朝はまず、植物園での花材採集からはじめることになっている。植物園での採集は、種類が多く管理が行き届いているので、状態のよい花材が短時間で手に入った。
Y氏、Sさんと私たちは、モンテヴィデオの街の一隅にある植物園に向かう。トラックが一台、私たちのあとにつく。いまにも雨の降りだしそうな早朝の植物園は、肌寒ささえ感じさせる。
植物園の奥にある二階建ての白い管理棟から出てきた、やや太めの女性が責任者で、ドットーラ何々という肩書きで紹介された。
園内のものは何でもけっこう。ただし、と数種類の植物をあげて、それと若い木は切らないで、一本の木から枝を切るのは少しにしておいてね、と言って、
「じゃ、いってらっしゃい」
とドットーラは建物に消えた。
いろいろと採集させてもらい、ひとまわりして帰ってくると、やしの木の大きな皮がアスファルトの道路に落ちていた。
「いいじゃない」
私と市瀬さんは思わず顔を見合わせた。
四、五枚をトラックにひきずっていく。一メートルくらいの長さで黄色がかった茶色をしているその皮の状態は十分に暗示的であり、どうにかしたら何かになるんじゃないかという気持ちをかきたててくれる。
ドイツの建築家、ブルーノ・タウトは、伊勢神宮の美しさを「まるで天から舞い降りてきた破片でできているような」という言葉でたたえた。
このやしの皮は、偶然道に落ちていたが、それは天からの贈り物にも見えた。この天から舞いおりてきたばかりの破片を集めて、いけばなをするのだ。植物にまつわる歴史や、その植物にいだく人々の思いは種々あり、それがさまざまな形で詩歌や文にあらわれる。それらが積もりに積もった植物への思いとなる。とくに日本では花に密着したストーリーが多い。この旅ではそれを、おもいきり捨てて花材をあらたに見直すことができるのではないか、と私は期待していた。拾ったひねくれた茶色の皮は、その恰好がまたよかった。これをどう使うか、という具体的アイデアはいまはない。ただ私たちは直感的に、それがおもしろいと思ったのである。それが何かとうまくひびきあえば、ひとつの光を発してくれることは確かである。何かの信号を発していると花材が目に見えてきたとき、それがいけばながはじまる瞬間である。少なくともそう思った瞬間、花がひきずってきたすべてのストーリーは消える。
とうとう雨が降りだしたと思ったら、まもなく強い降りになってしまった。最後の花材を車に運ぶころは、髪の中までずぶぬれになってしまった。
拾ったやしの皮を見て、送りに出てきてくれたドットーラは、私たちだったらゴミにしてしまうのにね、こんなものは、とY氏が話している。楽しみだわ、どんなになるか。車にのりこむ私たちにドットーラがそう言って手をふる。
「いやあ、突然の雨で大変でしたね。ご苦労さまです。午後からは日本出身の方が花を栽培している農園に行きましょう」
Y氏は予定表をとり出す。昼食をすませ、車にのりこんでしばらくのあいだ、Y氏からこの国の話を聞く。
ウルグアイはブラジルの領土の一部だったことがある。一八二二年、ブラジルの独立宣言のときはブラジル領内に含まれていた。十九世紀初頭にはモンテヴィデオがイギリスに占領されたこともある。一八二八年、イギリスはアルゼンチンとブラジルに、このウルグアイを緩衝国として独立させる案を承認させたという。つまりアルゼンチンとブラジルという大国間に紛争とか衝突が起こる場合、クッションの役割をするための国だったということなのだ、そういう、あまりにも特殊な意味あいをもった国家というのは、日本人である私にはなかなか理解しにくい。
情況はややちがうが、いまの、それもここ数週間のモンテヴィデオは、国際的な注目を集めていた。この国の独立に大きくかかわった二つの国、すなわち英国とアルゼンチン間に起こったフォークランド、あるいはアルゼンチン名で、マルヴィーナス紛争の捕虜の引渡しが、国際赤十字の仲介によって、この町で行なわれているからである。
「その引渡しに立ち会うため、主人は今朝四時に出ていきました。夜も毎日遅いし。紛争のせいです」
あとでデモンストレーションを手伝ってくれたウルグアイ人のM夫人は、ふと顔をくもらせて言った。ご主人はこの国の政府の重要なポストにいる。
モンテヴィデオとアルゼンチンの首都ブエノスアイレスは、ラプラタ川をはさんだ対岸にある。川の対岸といっても百キロ近い幅があるのだが、しかし隣国がいま紛争状態にあるという事態は、このM夫人の話ではじめて感じるものであった。それよりもこの国の様子は、私たちの精神までゆったりと解き放ってくれるような雰囲気さえただよわせているのだ。
「晴れましたね」
気がつくと雨はいつの間にかあがっていて、うすい青空がひろがっていた。小さな虫が飛んできて、フロントガラスにぶつかり、液状になる。
「モンテヴィデオは一日のなかに四季があるといわれています。それほど天気が変わるのです」
このモンテヴィデオという町は、そんなに古い町ではないらしい。一五二〇年、マゼランの一隊がこの近くを通り、
「われ、山を見たり」つまり「モンテ・ヴィデオ」といったことが、この町の名の起源になったという説がある。
「でもこの『山』というのがなんと海抜百十八メートルなんです!」
という説明に、車の中の一同は思わず笑いだす。
「こんにちわぁ」
有刺鉄線のはられた農場の、板をぶつけただけという感じの木のドアから車が入っていく。そこで、ガーネットにちかいような色のカーネーションや菊をたくさん切らせてもらい、そこからもう一軒、あまり遠くない所にある農園に寄る。ここではダリアや極楽鳥花を栽培しているという。
「こんにちわぁ。……だれもいないようですねぇ」
Y氏はグリーンハウスをのぞいてみる。すると別の小屋から、この農園の若い主人が作業服に長靴であらわれる。大男であるが、まちがいなく日系の人である。農場を案内してもらいながら、
「ご出身は?」
とたずねると、日本語で、
「ボク、パラグアイ生まれ」
という返事がかえってきた。丸く、人なつこい顔が大きな縞のつなぎの服装の上でニコニコしている。案内された畑の一つにはグラジオラスが育っていた。
「この花、いただいていいでしょうか?」
「コモ、ノ。ええ、どうぞ」
そうだ、きのうとったのだけど、いいのがあったら持っていってくださいよと、冷蔵室の中にも案内される。十畳ほどの広さのコンクリートの壁の部屋に、バケツが並ぶ。きょうはもう出荷したのだろうか、花の入っていたバケツは五つほどだった。花が開いているものを何種類か選ぶ。デモンストレーションで効果的に、また遠くから見られることも考え、開きかげんを見ながら選んでいく。
農場の小川の近くに、黄色い葉のきれいなきんまさきをみつけた。いただいてもいいですかと聞くと、ああ、これも使います? どうぞと快く切らせてくれた。農場のさくの近くに、いい色になった枯れ草をみつけた。しかしとげが痛く、採集はあきらめざるを得なかった。やさしげでのんびりしていても、植物にとってはとげを生やして警戒していなければならない自然環境なのだろう。
いったいどこまでが自分の土地なのか、低い雑草が花畑のまわりからずっと広がっている。どこかで犬が吠えている。農場にはえているユーカリの大木の幹からは、やわらかな若い枝がたくさん出ている。葉をひきちぎるとユーカリ独特のさわやかな香りが空中に立ちのぼる。
「主は我をみどりの牧場にふさせ、いこいの水際にともなわれる」
ふとこんな一節が心のなかによみがえった。それは昔、暗唱させられた聖書の詩篇のなかの一節だった。小さいころのイメージが、いま、現実に形となって目の前にあるような気がして、私はもう一度あたりを見まわした。
ウルグアイの日系人口はまだ何百人単位ということだ。しかし運命にみちびかれたこの人たちのみどりの牧場、そしていこいの水際はここなのだろう。
前の農場は日系一世夫妻の経営だったので、農作業姿の二人と話していると、まわりを考えなければまるで日本にいるようだった。しかしパラグアイ生まれの二代目さんは、もう日本語を話すだすとき一瞬考えるような間をおいた。
レプブリカ・オリエンタル・デル・ウルグアイ。
ブエノスアイレスからみると、ラプラタ川をこえた東の地域。そこにみちびかれた人々。
帰りに自宅らしい建物の前を通った。窓に黄色と白のチェックのカーテンがゆれている。その下におもちゃの赤い自動車がポツンとおかれているのが、印象に残った。夜がくると町の中心から遠く離れたこのあたりは、とっぷりと暮れてしまい、闇が訪れるのだろう。家畜と、草と、木のにおいをその闇にとけこませながら。
|