時分の花― アルゼンチン 1
忙しいなかにも私たちをのんびりした気分にさせてくれたウルグアイのモンテヴィデオの町が、眼下でしだいに遠く小さくなっていく。飛行機が上昇し、やがて水平飛行にうつり座席ベルトをはずす音があちこちで聞こえたと思ったら、もうベルト着用のサインがつく。
モンテヴィデオの街を車で走るとき、青黒く、ときには褐色にも見えた堂々としたラプラタ河の上を、たった二十五分飛んだ対岸にブエノスアイレスはあった。
いよいよアルゼンチン入りである。
それは私自身が生まれてはじめて経験しようとしている「戦争」なのだった。
いけばなをしているために、紛争中の国に入っていく。不思議な運命を思わずにはいられなかった。
東京の大森に住んでいたころ、たしか三歳か五歳か、そのくらいだったと思う。戦後の復興が急がれるなかで、町にもそろそろ活気が戻ってきたころだった。そのなかで、私の一番好きな店は乾物屋と花屋と豆腐屋だった。乾物屋には大豆、小豆をはじめ、白とか黒、赤や茶といったさまざまな色の豆が箱の中に種類別に中高に盛られていて、ますではかったあとにできるくぼみ具合や、一つ一つの豆の形や模様を、不思議な思いで見ていた記憶がかすかにある。
ほとんどバラックに近い商店街のなかでも、花屋は一段と華やかで、いいにおいや色彩にあふれていたから、買いものに連れていってもらうとき、花屋の前にくるといつも立ちどまって動かなかったらしい。とうとう母は、当時のお金で毎日五円という約束で自分の好きな花を買ってもよいと言ってくれた。いまなら色彩は街中に氾濫しているが、戦後の荒廃のなかでは、花屋の店先は子供にとって一番生き生きと見えたのではないだろうか。
豆腐屋では黒いゴムの前かけをしたおにいさんが、タイルの水底から、すいと素手で白い豆腐をすくうところを見るのが楽しみだった。水の中でそれが一瞬ふわっと浮かび、ちょっと逃げるときに水がするりと動く。それを見るのが好きだったのだ。
いけばなは中学の課外授業で習いはじめた。いまでも同じ先生に師事している。花をながめたり切ったり挿したりするのは好きだったが、まさか職業にするとは思っていなかった。勉強が忙しいからといってはさぼり、明日がテストなので、と花材だけいただき、持って帰ってバケツにつけたままにしておいて母に叱られた。大学受験が近くなると、次々やめていく人が多いなかで、勉強のあいだの気分転換にもなるからと言われ、細々とではあるがつづけた。大学も四年生になり、卒論も書きあげ、四月からどうしようということになった。いまのように就職活動に精を出すということは、当時の女子大ではなかった。私の大学はとくにそうだった。ある人は大学に残り、また留学し、そのほかはとりあえず家事手伝いでおけいこに通うというふうだった。私は何もしないおけいこだけの毎日で、適当な結婚相手があらわれるのを待つという生活はしたくなかった。
英語が好きだったので、通訳になったらどうだろうかと友人をつかまえて聞いた。
「そうねえ……無理だと思う。日本育ちなら」
彼女はあっさりと言った。
「そうね」
私もそう返事をした。彼女つまり日本のインターナショナル・スクール育ちの韓国の友人は、留学先のカナダで知りあったローマ史専門のアメリカ人と結ばれ、現在ロサンゼルス郊外で主婦となっている。
その後、日本育ちでも立派に通訳をしている諸姉に何人も会った。彼女たちに共通しているのは、日本語がきちんとしていて語彙が豊富であり、そのニュアンスの深いところまで読みとれることである。外国語ができるから必ずしも通訳ができるとはかぎらないようだ。いずれにしても私の友人は、私の実力が通訳という職業に不向きであることを早くも見抜いていたのだろう。それ以上追求するということは、私もしなかった。
「一番楽しいのは何をしているとき?」
週に六日の会社勤めはいやという私に母は言った。
「花をいけているときかなあ。でも英語で他の国の人と話をしているときも楽しいけど……」
「英語で花を教えることにしたらどう?」
考えてみれば、ここアルゼンチンの地に、いま私が立っているというそもそもの原因は、母のこの一言にさかのぼるのである。
しかしそのときの母は、高齢出産でできた一人娘をできるだけ早く嫁にやりたい、それまでの一時、本人が好きだからといういけばなをさせてみるのもいいだろうということで、別にその後の展開に、深い読みをしていたわけではなかったと思う。
しかし、母親の何げない一言のためかどうかは知らないが、いまのところその娘は嫁ぐ予定もなく、紛争国アルゼンチンに入りつつあるというわけだ。
しかしまた私は、いけばなであるからこそ紛争の国へも入っていけるという不思議も感じていた。文化交流が国際社会で負っている役割は、想像以上に重いものがある。
いけばなの場合、表現の手段である植物は何も言わない。花は声高に主張したりはしない。それどころか、時が過ぎれば枯れていってしまう。
アルゼンチンでは、いけた作品について、
「題はないのですか?」
と聞かれた。インドのカルカッタでは、ぜひタイトルをつけるようにと言われた。強くすすめたのは取材にきた新聞記者だった。
「そうでないと、私たちはそのいけばな作品をどう解釈したらいいか、困ります」
作者のメッセージは何か、それを言葉で知りたいらしい。戦火が一日も早く鎮まってほしいアルゼンチンで、中途半端な題を何とかつけたところで、それは見る人にある方向づけをさせてしまうだけで、いかにも安易ではないか。もっと自由にいけばなを感じてほしい。生きている枝の勢いとか、からみあったつるの曲線のおもしろさ、赤い花が、向く方向でまったくちがった表情をみせること。それを、いまを生きる人間が発見し造形をするということ。つまり、人間と植物の不思議さ、人間の楽しさは、国をこえ、利害をこえた共通したものであるということを訴えたいと思った。
そういうメッセージを根本にもっていればこそ、いけばなは、どちらかというと政情不安な所、日本とその国との関係がそうスムーズにいっていない所に、まず送られるのではないかと思う。
近年、歌舞伎がソ連にいったのも、大韓航空機事件、チェルノブイリの原発事故のあとぎくしゃくとした関係が、日ソ間にあるときだった。文化使節としての歌舞伎は大成功をおさめたといわれる。それがきっかけとしていろいろな交流が日本とソ連のあいだに計画されている。
戦後、日本のいけばなはまずアメリカに招かれた。つづいてヨーロッパ各国、共産圏。一方それはアジアの諸国へもひろがっていく。まず、いけばなが送られ、スポーツの交流がはじまり、その次が経済や政治上の交流になる。それは、日本が戦後、国際関係をたてなおす順序でもあったようだし、いまもそれがつづいていると考える。そういう戦後いけばなの、海外交流も描けるのではないだろうか。送られた先の国のどんな歴史の一点に、いけばな使節の派遣が位置していたのか、そして日本との関係がその後どう展開していったのか。そんな視点からながめてみることも、また必要なのではないだろうか。
いまでは、世界の大半の地域に、いけばなを習った人、また、いけばなを習った日本以外の国の人たちを通じていけばなに接している人もいる。それはいけばなが、そのような普遍的な魅力をもっていたからこそ、複雑な事情のある国々にも脈々と、しかし静かに根をおろしつつあるのだと思う。
大学を出て就職先を決めるとき、いけばなをする、と言うと、いけばなを本業とするのはもったいない、趣味としてやればいいじゃないのと同級生の一人に言われたことを思い出す。しかし私はアルゼンチンのブエノスアイレスの、想像していたよりずっと活気のあるサンタ・フェ通りを車で行きながら、いけばなだからこのアルゼンチンのブエノスアイレスまで来ることができたと思ったのだった。
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