変化しつづける芸術― ウルグアイ 6
ここウルグアイでの初回のデモンストレーションは講習会も兼ねているので、投げいれのときの枝のとめかたや、花材のあつかいかたを細かく説明した。
二回目は、この行事のため帰国をのばしてくださった大使ご夫妻をお迎えして行なわれた。
デモンストレーションがはじまってみると、Sさんの通訳は心配していたほどのこともなく順調にいった。私はいつもより英語の単語を吟味していたため、あとで市瀬さんから、きょうはいつもの雰囲気とちがっていた、ペースもゆっくりだったと言われた。Sさんなら、あまり英語にこだわらなくてもよかったかもしれないと、私はそのことに気をとられすぎていた自分を少々悔やんだ。
デモンストレーターは舞台上で、いつもどこかで醒めていなければならない。
見所より見る所の風姿は、わが離見(りけん)なり。しかればわが眼(まなこ)の見る所は我見(がけん)なり。離見の見にはあらず。離見の見にて見る所は、すなはち見所同心の見なり。その時は、わが姿を見得(けんとく)するなり。
『花鏡』のなかで、世阿弥は演者は観客の側にたって、自分の姿を見なければならない、という意味のことをいう。どんなに熱心にやっていても、自分に酔ってはいけないだろう。自分が実際に作品を作るときも、たえず自分と他者の目をかわるがわるもちつついけていく。作者の意識のなかで、作者と他者という立場をすばやく切りかえられるとき、その作品は完成度を高めていくにちがいない。それは能でもデモンストレーションでも同じだろう。
目先のことばかりに熱中していると、思いもかけないことが起こる。
あるデモンストレーションのとき、花材を運んでくるお盆の上に無意識にはさみをおいてしまった。作品が仕上がったので、その上に残りの花材もおいたらしい。気がつくとお盆はさげられ、次に使用する花器がもってこられようとしている。
はさみがない!
幸い、観客の目はいまいけあがった大きめの作品の運搬のほうに向いている。金屏風のかげをちょっとのぞく。ステージのそでに二歩ほど進み、にっこりと、
「はさみ」
と言う。
「?」
花材を持って出ようとする市瀬さんが、けげんな顔をする。
「はさみ」
と小声でまた言い「お盆」とつけ足す。
飛びあがらんばかりに驚いた彼女、前のお盆からはさみをみつけ、手にしていたお盆にのせ、何もなかったような表情で運んでくる。
また、どこの国だったか、作品を運ぶ役の屈強な若者が、花器をヒョイと持ち上げ、決めておいたステージの横の机に軽々とおいたのはいいが、見ると作品が横を向いてしまっている。市瀬さんがあわてて向きをなおしにいくという一幕もあった。
ある所では、運ばれた作品が机の上におかれるとき、その枝がとなりの作品をひっかけてしまった。作品お顔のような役割をしていた枝がくるりと向きをかえてしまい、見ていた人たちのなかから声にならない「あ」という声があがった。もっとしっかり固定しとくのだった、もっと安定のよい枝を使ったほうがよかった、と思ってももう遅い。
なるべく動揺をかくし、次の花材を持って出てきた市瀬さんにニッコリと、
「なおしておいてくださいね」
と言う。あちらもニッコリと、
「はい」
とステージの下手の机の上で堂々と、しかし手際よくなおす。いまできている流れをとめてはいけない。リズムをくずしてはいけないと言葉をさがす。
「次におめにかけますのは……」
と何ごともなかったように、ひときわ声を高く、調子をかえてにこやかに説明をはじめながら、いや度胸がありますよ、ホント、などと心のなかでつぶやく。
実際にステージとそでを往復して、花材や花器を運んだり、切った花材のきれはしがたくさんたまった水切りボールをとりかえたりして、ステージの上を移動するのは助手である。だから、物理的な距離をおいて作品が見られるのである。きれいな形のマッスにしようとして作品を刈りこんでいると、花材をさしだしながら、
「右横の下の枝、とびだしてる」
などとこっそり言ってくれたりする。忙しくて枝を切ったりしていると、
「時間、まだある」
と情報をくれ、落ちつかせてくれる。
そんな彼女をはじめ手伝ってくださる方々が大きな花器の運び出しに手まどっていると、
「地球の反対側の日本では、春も終わりに近づき初夏となるころです。私たちの出発いたしました四月の末は、桜もとうに終わりまして東京は青葉の季節となっていました。日本では『桜の開花予想』というのがテレビやラジオ、新聞で報じられ、桜前線は南から、ずっと北にあがっていきます。北海道の一部では五月のはじめ、やっと咲くかもしれませんが……」
などとつなぎをする。
スリルいっぱいで冷や汗の出る思いのそんな綱渡りも、思い出してみるとなつかしい。そのときには時間が生き生きと脈打って流れていたと思うのだ。
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