時分の花― アルゼンチン 3
いつも観客に対しての言葉は、気をつけているつもりである。しかし少し座がざわついてきたり、空気がたるんできたと思うと、日本の話をしたり、冗談を言ったりする。政治の話、宗教の話は、よほど親しくなって、その人の考えかたがわかっているというとき以外はしないし、とくにデモンストレーションのような公の場ではそんな話はしないようにしている。その場の状況をすばやく判断して話題を選ぶことが必要とされる。デモンストレーションではその国のいまの状態を心の奥にしっかりとしまって話を進めなければならない。
デモンストレーションの進行のなかでも、現在の年齢だからこそ、言ってもうけいれられることがあると思う。もっと歳を重ねて、いける花の性格もかわってきたときには、たとえば同じ冗談を言ってもちぐはぐな感じを与えることがあるだろう。デモンストレーションを「演じる」人の自覚、自分を客観的にみることが必要だ。
世阿弥は演者の年齢を細かくわけ、それぞれの演じかたを指導している。そして、当時でいう四十歳を境として、この歳まで「時分の花」、つまりその折々に美しく咲く「花」ばかりを追っていた者の能はさがっていき、「真の花」に達している者だけがのびていくという。当時の四十歳はいまの何歳にあたるのだろうか。それを読んだとき、その年齢にはまだ遠かった私は、そんなものだろうと思った。しかしこの数年は、この言葉が心に残る。
「真の花」に対する「時分の花」は、つまりはその年齢だけの花であり、しょせんは消えていくものだと世阿弥はきびしい。
世阿弥の教えにさからうようだが、私はそれでも「時分の花」も「花」なのであり、それはそれとして大いに主張すべきだと考える。
若気のいたり、こわいものしらず、と人から見られる私たちも、その歳だからできたことがある。それを自覚したうえで「真の花」をめざすしかない。
しかし「真の花」をもったデモンストレーションというものも、小さいことの積み重ねからはじまるということが段々とわかってくる。
デモンストレーションをしているのを見て、作品は実にすばらしい、しかしどこかデモンストレーション全体が暗い印象を与える人がいることに気がついてきた。
「重厚」というものともちがうし、何がそんな印象を与えるのだろうと注意していた。声が小さいのが原因のこともあった。自分の仕事に熱中のあまり、意識が観客のほうへいっていないと明らかにわかることもあった。
声が小さいということは私もそうだし、そのうえ早口なのだ。ワイヤレスマイクの設備をもった会場だと具合はいいが、それだと助手との内緒の話がつつぬけになるおそれがある。
「あと何分くらいある?」
「はい、これでいい。花材は、もういらない」
「あとは短く切って渡して」
などというのは聞こえてはならない。かといってデンとすえられたスタンドマイクが口元までのびていると作業がしにくい。手元が見えないと言われることもある。私としてはよく通る声の持ち主がうらやましい。
コミュニケーションの基本として、当然のことに声とか視線という要素は考えなければならない。しかしもっと本質的なことがあるのではないかと、二百五十名ほどの観客を前にして私は思っていた。私が枝をためると手元に集まる視線、あんなにまげて、折れるのではないかと心配している気配が伝わってくる。ついたてのかげに、横にしておいた長い大王松の枝がたてにして舞台に運ばれると「まあ大きな木、どこで切ったのかしら」ととなりと話をしている人たち。それを追う視線。観客一人一人の、私の一挙一動に対する反応。それが集中してくると、呼吸のタイミングまでが伝わってくるような気がする。私が発する言葉に対して、あるいはいけていく動作に対して、その節々に、まるで二百五十人の人々が大きな一匹の生きものとなって呼吸しているように感じるのだ。この生きものの、微妙で、そして巨大な反応を全身で感じながらプログラムを進めていくことが大切なのだと思う。
だが生きものであるかぎり、気まぐれという性格は免れない。おもしろくないものにはすぐそっぽをむき、沈黙してしまうのだ。
その沈黙の性格にもよるが、状況によってはプログラムをぐんぐん前に進めるほうがよいこともある。そんな場面にぶつかると、たとえば花材の話にもっていく。もしも観客が興味を示すようだったら、花材のあつかいかたをいくつかみせたりする。
観客どうしが話をしだしてしまうようなときは、大きな手のかかる作品を製作している場合が多い。その国の自分の印象を話したり、ときには冗談をまじえて話をする。
この観客たちにはデモンストレーションのあいだ、外のできごとはすべて忘れてほしいと、私は念じる。急速に価値を失っていくペソがもたらす経済不安。いけばなを習っている人たちが各流派やいけばなインターナショナルに会費を送金できないこと。そろそろはじまりそうだとささやかれている灯火管制は、公道の片側のライトからだといわれている。
そんな状況でおこなわれたデモンストレーションに、私は十二作の作品をいけた。
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