時分の花― アルゼンチン 4
デモンストレーションが終わると、観客の長い拍手がつづいた。質問は「枯れものや、着色した材料だけで、なまの花をつかわなくてもいけばなといえますか」といったものや、「花材のとりあわせはどう決めるのがいいでしょうか」といったものだった。
いけばなに関する質問をうけながら、私はなぜかほっとしていた。
しかしデモンストレーションが終わり、人々が作品を見るために集まってくるのを見ると、舞台上にいたときはのどもかわかず、トイレにも行きたくなかったのに、はずかしさがどっと噴き出してきて、作品と一緒にこの場から消えたくなってしまう。十数作もいければ、おのずからうまくできたものと、そうではないものが出てくる。それはここアルゼンチンでも同じだ。
自分で気に入っていない作品を、人々がしげしげとながめていることがはずかしくなってくる。すぐにかたづけたくなる。そしてこれを機会に、またあらたに心をいれかえて腕をみがいていこうと固く決心をする。
人々が去り、作品だけが並んでいる舞台上で、さあかたづけなくてはというときになると、たとえ気にいっているものであっても、作品はすべて、舞踏会が終わったあとのシンデレラの物語のように、馬車はかぼちゃに、馬はねずみにもどってしまい、いっさいの光が消えてしまったように見えてくる。それはおそらく「デモンストレーション」というものの性質にかかわる、本質的な問題を示しているのだと思う。
その過程全部、その流れのすべてを鑑賞の対象とするのがデモンストレーションである。あえて乱暴な言いかたをすれば、デモンストレーションのあとでは、そこにおかれた作品はいけばなという行為の形骸ともいえるのだ。その作品には、流れのなかでの位置があり、それにまつわる言葉や、いけたときの人々の感動や、まっすぐな線を折ったときのみんなの驚きがあったはずだ。デモンストレーションには極端な新鮮さが必要とされる。つねに「しゅん」でなければならない。
だが、制作者側からみれば、もう少していねいに仕上げられたらよかったのにと思うことも多い。私はいつも反省する。
かといって、ていねいにということを大事にしていたら、全体の進行はスムーズにいっただろうか。観客は満足しただろうか。つまりは作者、観客、作品の重心をうまくとりつつ進めていくのが、上手なデモンストレーションというのだろう。デモンストレーションは時間や会場を含めた場所や、人々や、花材や、プログラムの内容、間、息づかい、瞬間やもりあがり、そのほか数えきれないエレメントが微妙に引きあったりバランスをとったりしてなりたっているのだ。
デモンストレーションの流れの即興性のなかでは、死へと向かっている植物の瞬間の美しさをひろいだす作業と、それをひろいあげ、いく種類もの植物と組み合わせて構成していく人間が密接に関連している。そのなかで人間も確実に変化していくのだ。
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