時分の花― アルゼンチン 7
理屈でわりきれない、そしていく重にも錯綜した諸要素を、勘でバランスをとるように構成していく日本の空間。それをなりたたせているものは何だろうか。方程式はつくれないが無秩序なものではない。これを前述のような、バランスといった点からみようとすれば、私のようにいけばなにかかわっているものは当然、それではいけばなではその問題をどう考えているのだろうかと思う。
一瓶のうちにても。一かたへながく出たる枝葉あらば。今一方は短く。その方をば枝葉しげりたる物を用べきなり。一方の枝はひらき。今一かたは抱。一方はたかく。いま一かたはひきく。一かたはのべに。今一かたは一もんじに。一かたはあがり。今一かたはさがるやうに用べし。すきやかなるものゝきはには。こまやかなる物を用ひ。ふときものゝきはには。いかにもほそき物を用べし。おなじ色をつゞけて用べからず
「長」に対する「短」、「高」に対する「低」のようないけばなにおいての空間への、基本的な「対応」のしかたがここにみられる。枝々が各々で関係づけあってバランスをとっていくということなのだろう。
この『池坊専応口伝』は十六世紀のものであるが、十七世紀も末に近い頃に出た『古今立花大全』では、一対一だけだった枝と枝の関係、バランスの問題をより発展させ、A対BならB対Cはどうあるかといったことに記述は発展している。
たとえば、いけばなの構成上でもっとも長い、大切な役割をする「真」の枝の高さによって、また花材の種類によって正心を何にするかが決まってくるという。
心若松ならば、正心禿松か鶏頭のやうなるつまりたる物よし、笠じんならば、又そのとりあひ有べし
「とりあい」という言葉には、A対Bだけの関係だけでなく、それと密接に関連してBとCはどうか、CのかわりにDではどうだろうかという、問題の連続的な発展性が感じられる。具体的な植物の名をあげ、その形体からバランスをとる「とりあい」を考える。
ここに出てくる「とりあい」という言葉に注目すると、心(しん)につづいて次の副(そえ)の花材についての記述にも目がいく。
また、梅、水木などの、生れつきの勢ひのある物は、無理にさげたるは、一種のせいありつかず、少みじかく出して請の取合にこゝろを付べし
ここでは請(うけ)とのバランスにおいて副の長さを考えるべきだというわけだ。
又、副といふ物のびてゆく故、請をちゞめざれば、とり合わろし。されど物により、下草の自由不自由によりて、のびたる物を請につかはで叶はぬ事あり。そのときは、そへをみじかく、ひかえをながく、ながしをちゞめ候はねば、一瓶のとりあひ見にくゝ候也
「とりあい」という手法が、固定された一対一の関係のなかではなく、流動的、複合的にとらえられている点は、ひろく日本の建築などにも共通してみられることである。いまは、そういった表現が当然のようになってきているが、この時代の日本が花をいけることについて、こんな内容の論考を残しているということは、注目しておいていいのではないだろうか。
「とりあい」という考え方はまた、昔の花伝書の中での古くさい、しかつめらしい約束事ではなくて、現代にも生き生きと生命をもって脈うっているものだと私は考える。
私たちは次の枝は、前の枝の長さの四分の三から二分の一の長さですよ、などと指導する。目を離すと外国の人たちのなかには、物差しでもあればそれを使いかねないような正確な長さを出そうと、親指、と小指を開いてはかったりしている人も出てくる。
目の前にあるその枝。それは二つとして世の中に存在しないはずの枝である。その枝は四分の三に切るべきか、いや、もっと短く二分の一か、あるいはその中間なのか。どれがもっとも全体に対してのバランスがとれるか、それを決定するためには葉のしげりかたやつきかた、線の特徴など、いろいろな要素を考えて割り出していかなければならない。線の長さと、色の量を比べてみたり、色の強さと空間の広さを比べてみたりする。ここには一応の方程式はあるが、それを最終的に決めるのはいけている人自身である。だからこのポイントこそは、血の通った人間でなければ教えることができないと、つくづく思うのである。
この「とりあい」に対する感覚は、日本人特有のものなのだろうか。外国人にもそういう意識があるのだろうか。そして、それは物と物との関係でしかおこらないのだろうか。
デモンストレーション自体を大きな一つの作品としてみるとき、その内容はまさに「とりあい」の連続であるといってもよいのではないだろうか。実際の作品の製作過程のなかでの「とりあい」。できあがった作品の形のうえでの「とりあい」。またそれをこえたデモンストレーションの進行上にもかかわる時間的な「とりあい」。そして観客と演者のあいだの「とりあい」。
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