秘すれば花― パラグアイ 2
私たちが車から出たとたん、あちこちから一斉に声があがる。
「セニョーラ、ほら新鮮だよ」
「どう、このきれいな花! セニョーラ、こっちこっち」
「こんなカーネーション、めったにないよ。お持ちなさいよ」
おばさんたちの威勢のいいかけ声である。東京の下町の八百屋さんや魚屋さんで、よくみかける風景のようだ。ただ言っているのがパラグアイ人のおばさんで、売られているのが花。それだけのちがいである。
ここアスンシオンの花売りのおばさんたちにとっても、もちろん花はまず商品である。そしてそれは、日々の糧を直接もたらしてくれるものなのだ。売るのに精が出るのも当然である。
「何てきれいなオレンジ色なんだろうね」
「いいグラジオラスだ。ほらこんなに!」
グラジオラスをふってみたり、包んであった紙をとったり、身ぶり手ぶりで花をたたえるかのようだ。一度にこうもワイワイ言われると、花より彼女たちの言っていることにまず気をうばわれてしまう。このままずっと立っていたら、あとはどんな言葉を使って自分たちの売ろうとしている花々を描写するのだろうか。彼女たちの言葉がつきてしまうまで、こちらもそこに立っていたい気がしてきてしまう。しかしそんな度胸はないから、買いそうもないところはさっと通りすぎていく。
それでも相手はがっかりする様子でもなく、ふくれるわけでもない。だが進んでいく方向に店をはっている人々からは、さらに盛んに言葉が投げかけられる。
「デリケートなこのピンクはどうだね!」
「花びらだってこんなに整っている」
「今朝とってきたばかりだから、こんなに新鮮だよ!」
「ほら、葉だってしっかりしていること! 見て! 見て!」
歩いているうちに、ここに白菜やパセリやレモンを置いても、不思議な気はしないだろうなという気になっている。
おばさんたちの元気のよさが圧倒的なのだ。
彼女たちが花々に投げかける言葉を聞きながら、私は世阿弥の、
「秘すれば花、秘せねば花なるべからず」
という言葉を思い出していた。この人たちに、もしもこの言葉を聞かせてあげたらどうだろうか。その意味するものは、説明したらわかってもらえるだろうか。そんな思いがふとわいてくるのだった。
「『花』なら秘しても秘さなくても結局は『花』じゃないの。ねぇ」
と大きな明るい声で笑いとばされてしまいそうな気がするのだ。
「花」という言葉が含んでいる意味の幅は、二十世紀の、いまの日本人にとってさえ途方もなく深い。
日本語の「はな」という言葉は、「あの人には花がある」「花も実もある」「花をもたせる」というような使い方でもわかるように、植物の花だけをさしているのではない。
ところで「秘すれば花」の「秘す」という言葉のほうに注目してみると、世阿弥は、秘してあったものもいざ公開してみれば、あまり大したものではない、とはいう。しかし、かといって、秘することをなおざりにしてはならないとも強調している。
「させることにてもなし」と云ふ人は、いまだ秘事といふことの大用を知らぬがゆゑなり
(風姿花伝)
秘すことの真の意味やその働きを知らないからそういうことがいえるというわけだ。
私のクラスの生徒にも、ごく初歩のうちはあれもきれい、これもよいと花材を選ぶ人がいる。グラジオラスもなるべく全体が見えるようにいける。なおすために切ると「あ、なぜ切ってしまうの、もったいない!」と声をあげる。花木もきれいだから、短くしたくない。アクセントをつけるため花を枝からとることなどもってのほか、グリーンの葉もそのまま、丈を切るのに抵抗があるといって、結局はボサボサの花をいけてしまう。そんなとき、よくこの言葉を思い浮かべる。
「秘す」ということは、表現としては一歩退くことである。それによってその表現を暗示的に見せることでもあり、それはすべてがあらわになったときの表情より、ずっと深いものを表現し得るということでもある。
しかし「秘す」ということだけを考えると、弊害も生まれる。過剰包装の品物、人の実力以上の肩書きなど、秘するあまりかんじんの中身が忘れられてしまっていることも多い。「秘する」ということはあくまで「花」が前提になってはじめてあるものだと思う。
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