秘すれば花― パラグアイ 4
一切の事(じ)に序、破、急あれば、申楽もこれ同じ
と世阿弥はいう。デモンストレーションの流れを大きくみれば、これは、序、破、急の「序」にあたるだろう。能の場合「序」を演じるには、具体的にどういったものがいいのだろう。
まづ脇の申楽には、いかにも本説正しき事の、淑やかなるが、さのみに細かになく、音曲、働きもおほかたの風情にて、するすると易くすべし
(風姿花伝)
これをいけばなのデモンストレーションにあてはめてみるとすると、あまり手のこんだものとか、技巧的なものや、時間のかかるものはさけて、さらりといけられるものからはじめていくということだろうか。私が基本の型をはじめにもってきたのは、そういう意図からだった。
「おほかたの風情」で「するする」といけていく。序、破、急のほかに、花の伝書には『仙伝抄』では次のように説明している。
じよはつきうの事。是は真行草あり。じよは真也。はつは行なり。きうは草なり。じよのはなは三具足、又荘厳の花なり。破の花ははんとしゆかひにかぶをたつるをいふなり。是行なり。次にきうの花は左右の花也。これは常の花瓶といふ。是は草也
大ざっぱにいえば、もっともフォーマルなものから、型から離れたものへの展開といった考え方がのべられているのだろう。そこには、「ハレ」と「ケ」といった問題もからまってくるのだろうが、デモンストレーションの進行を考えたときには「序、破、急」のほうがものごとの流れ、時のうつろいかたなどを端的にあらわしていてわかりやすいと思う。
私が「序」として基本の形をいけたのは、人々がまだ私というデモンストレーターも、私がどんな花をいける者かも知らないからである。ともかく、いけてみせる。あいさつがわりの花といっていいだろうか。
しかし、いつもこのパターンでいいとはかぎらない。その国の、いけばなの人々への浸透度、その理解度と関心度、それによってプログラムの組み方も変えなければならない。たとえば、第一作目は「あ、きれい」とか「これがいけばなか、いいなあ」と思わせるものにしてもいいと思う。
一作目が終わり、
「これで基本のいけばな作品ができあがりました。いかがでしょうか」
とおじぎをする。拍手が起こる。
それは、フーン、なるほどきれい、おや、いいなぁといった拍手である。はじめはこれでよいのだ。
次は少し調子を変えてみる。
変えるのはスタイルやいけかただったり、花材や花器にちょっと目をひくものをもってきたり、という点だ。何だろうと皆が思う。
このときは、アスンシオンでみつけた手つきの土なべのようなものに、赤いクロトンとマリーゴールドをいれ、大使夫人が持っていらした日本からのほうき草をいれた。白く脱色された、まっすぐなほうき草が、まげられてみるみるうちにカーブをつくっていくと、観客は熱心に手元をみつめる。
たとえば絵画で、中国の山水画を鑑賞するとき、私たちの視線はふもとから道へとみちびかれ、そしてだんだんと山の奥に入っていく。視点が移動するたびに、今度は何があるのだろうと期待をいだきながら、視点も旅をする。日本の回遊式庭園も、木々のあいだから、池の一部が全体を暗示するように見え隠れし、浜に出るとパッと景観がひらける、というような視覚効果を十分計算にいれている。また絵巻物にも、同様な展開がある。見る人の意識の流れに書のかすれや、にじみ、太細、濃淡などが働きかけてきて、知らず知らずのうちに鑑賞者の視点にリズムとはずみが与えられる。
だが、いまあげたいずれの場合でも、それを見るうえでのイニシアチブは鑑賞者がにぎっている。早く歩いていくのも、ゆっくりと味わいながらみていくのも、それを決めるのは見ている人自身である。
しかし、デモンストレーションでは、観客の意識を、自然に次のプログラムへみちびいていかなければならない。ここでは無理強いは禁物なのである。
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