秘すれば花― パラグアイ 7
これで南米で行なうデモンストレーションのスケジュールのすべてが終了した。私がまずはじめに思ったことは、明日からは病気になってもいいのだ、ということだった。そう思っただけで私の気持ちはずっと楽になっていくのだった。
デモンストレーションでは、いける人自身のコンディションが舞台に出てはいけない。たとえその日が長い飛行で到着した次の日であっても、あるいは体調が悪かったり、頭が痛くても、決して人にそれをみせてはいけない。また、それまでの関係してくれた人たちとのかかわりあい、準備の運び具合などとは、デモンストレーションがはじまったとたんに切り離さなければならない。デモンストレーションは日常性から離れた、一種のパフォーマンスだからである。いける人が、その直前まで、たとえどんな状況にあっても、そのことに観客の関心はないのだ。
私はこの旅を経験して以来、コンサートを聞きにいって、外国から来たソリストがみごとに演奏したり、歌い終わったときには、何だか人ごとではない気がして以前にもまして拍手をするようになった。その裏に、毎日の節制を重ねた生活があることを聞かされたりすると、なおさら拍手の調子は高くなるのだった。
ある大歌手などは、ほんの少しのすきま風でものどによくないと、一流ホテルの自室の、すきまらしいところに全部ガムテープをはってまわったという。体が楽器でもあるこの人たちにとっては、当然のことだろう。
力を出しきった歌手が「ブラボー!」という称賛の声や拍手に、エレガントにあいさつをしているのを見ると、よかったわね、よく歌えて、そして無事に終わって、と声をかけたくなるのだ。
おそらく外国からの影響を大いにうけてできたいけばなの「デモンストレーション」という形式。いけばなをいけるプロセスをみせながら、観客に同時体験を与えるというこのスタイルが、十四世紀から十五世紀にかけての歌道や能、そのほかの芸術と重なる部分をもつことを、私はおもしろいと思う。
あの時代には、各分野の芸術家が将軍を中心に集まり、その交流も活発だったと聞く。各々の分野での芸術上の刺激は多かっただろう。
いけばなは、その時代のどんな空気を敏感に反映していたのだろうか。そして二十世紀のいま、いけばなは各芸術とのかかわりを通じて、いっそう新しい面をみせていくことだろう。そのなかには当然、外国文化との接触も含まれる。
いけばなの形も、いけばなに対する人々の意識も、どんどん変わっていくだろう。当然のことにデモンストレーションの形も変わっていくのだろう。どんな形がいけばなを紹介するのに一番よいものになるのだろうか。
観客が、舞台におかれた作品をみるため移動しはじめた。私たちのところに来て握手を求める人、感想をのべる人たちもいる。
「あの……どうもありがとうございました」
ふりむくと日本人のお嬢さんが立っていた。十三歳か十四歳か。中学生だと思った。こちらで生まれた人かな、と私は思ったが、話を聞くとそうではなさそうだった。
「実はいままで日本にいたときは、いけばなにあまり関心をもっていませんでした。古くて堅苦しいものだと思っていたのです。でもきょうはとても楽しかった。日本に帰ったら勉強したいと思いました。それと日本人である私が日本のことを知らなかったと思いました」
そのお嬢さんは、まわりのだれかにうながされたのではなく、自分でここまで来て、自分の言葉で語っているのだ。それがはっきりした日本語の調子ですぐわかった。
このお嬢さんの「自分」の意見をのべる、といった明確な態度に、これからの時代は、こういう人たちが背負っていくのだなという感じを消すことはできなかった。
「失礼します。質問があるのですが……」
パラグアイ人のやはり若い女性が話しかけてくる。
「この国の人たちの反応を見ていえて、いけばなを外国人である私たちが本当に理解できると思いますか?」
観客のさまざまな話し声のなか、彼女の言葉を正確にひろおうと、私の意識は彼女のほうへと集中していくのだった。
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