花の旅 9
本来、花をいける作業というのは、他の芸術と同様に孤独な作業である。制作をしているときの意識のなかには、自分と素材しかなくなってしまう。一生懸命いけているときには楽しく夢中になれることもあるが、しかし、どうもうまくいかないということもある。
「線が単純だなぁ、もうひとつ迫力に欠けるなぁ」と、どうしたらいいのか思案する。そんな姿は人目にはさらしたくない。まわりに人がいてほしくない。お互いの性格も、よくわかりあっている人ならいいが、それ以外の人がいると、集中できないこともある。そんな過程を不特定の観客を前にみせる。そんなことを、つつしみ深くシャイな日本人はいつごろからはじめたのだろう。
デモンストレーションという形態では、はじめから素材と作者、そして観客という三者の関係のなかで、作品が成立していく。できあがった作品をみれば、たしかに三次元の表現形態である。しかしデモンストレーションの性格のなかに、演劇や演能といったものに近い要素が含まれているような気もする。実際、デモンストレーションで、デモンストレーターの横で作品の解説をしてくれる人がいるような場合には、制作者は作品だけにうちこむことができるが、現実には一人でいけながら、作品やいける技術、花材、そのほか関係するさまざまなことを説明しなければならないことのほうが多い。はさみを持つ手と口を動かしづめのこともある。だから観客がどんな人たちなのか、何に興味があるのか、そしてその反応がどうであるかを考慮にいれなければ、いいデモンストレーションはできないのである。舞台の上ではいくら入念に準備したつもりでも、思いがけないことが起こる場合もあり、すみやかに対処する能力も要求される。だから、観客には、そのデモンストレーターの人柄まで伝わってしまうのである。
花を生けむと思ふ時は、心静けく気平かに、所謂三昧に入るを最も肝要とする。
(中略)心治まらず、気安らかならざれば、一枝を矯め、一葉を透すもままならざりけり(古流生花口訣抄)
デモンストレーションには、通常のいけばなをいけるときとはちがったさまざまなことが要求されるので、「心静けく気平かに」なるのを待っていられないこともある。ふだんの作品が優れている人でも、デモンストレーションとなると、その実力が発揮できない人もいる。だから、予想外の場面に出合うと、まるで用意のできていないときに不意にプールにつき落とされ、水を飲んだりしながら、ともかく泳ごうと必死になっているような気持ちを味わうことになるのだ。
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