変化しつづける芸術― ウルグアイ 5
デモンストレーションの前に、地元の『エル・ディア』という新聞のインタビューをうけることになっていた。
「女性で日本に行ったことがあるそうです。あ、英語を話します」
というので安心した。
ちょうどその日、空手のけいこを終えてきたという女性記者にいろいろと質問をうける。インタビューは、イケバナとは何ですか、それにはどんな歴史がありますか、ということからはじまる。
「あなたのエスクエラ(英語の『スクール』)の先生は何人くらいいますか? 生徒の数は?」
「そう、師範の資格をもっている人と、実際に教えている人とは数がもちろんちがうけれど。何万人かしら。生徒はその何倍になるかなあ……」
「あ、ちょっと、どうしてそんなにいるの? 入りきらないでしょ、建物に。エスクエラはどことどこにあるの? 全国的なもの?」
「ああ、あなたはいわゆる小学校かなにかの学校組織と思っているのね。たしかに『何とか流』というのはスペイン語だとエクスエラ、ナニナニと訳すけど、ふつうの学校とはちがうのね。そうねぇ絵画で何々派……たとえばヴェネツィア派とかフランドル派とかあるでしょ? あれに少しは似ているけれど……。でもそれとも少しはちがうわね。組織のなりたちからいえば」
私は説明につまる。
実際「何とか流」というときの訳語はまぎらわしくて困る。この制度が日本独特のものならナントカリュウでいいではないか、というのが私の意見である。
エスクエラにあたる英語の「スクール」でも、その内容を知らない人は混乱する。
東京でも突然毛色の変わった若者がけいこ場にあらわれ、ここはイケバナスクールかと聞く。イエスと答えると、日本にもっといたい、それにはビザの延長をはからなければならない。ついては学生証明が出るならいけばなをしてみたい、というようなことがある。ていねいに説明して、おひきとり願う。
「スクール」をもととした誤解はまだある。別の折に「ところでこのクラス、学割は出ないの?」と言われたときは、相手が何を言おうとしているのかはじめ理解できなかった。
「授業は一時間というのに、もうきょうはこれだけですか?」
習いはじめて三回目くらいの人が、上手に早くいけたのでほめてあげたあと、ほかの人のをみるのも勉強だからしばらくみていらっしゃいと言ったら、こんな言葉が返ってきたこともある。学校の授業で教授が、じゃあきょうはここまでと言って、時間を残して帰ってしまったら、不満を言う学生も出てくる。それと同じ感覚らしい。私も心得て、以後うまくやっている。
免状とか証書が有料だということも理解しにくいようである。
「大学では卒業証書はタダなのに、何で日本はおけいこごとのコース終了の証書にお金をださなければならないの?」
という質問をうけることもある。そういうことにきちんと答え、納得させなければならない。それらの生徒たちの困惑の原因は「流」の訳語に英語の「スクール」があてられ、他の国の言葉でも「スクール」に相当する語をあてはめたことからきていると思う。
記者の女性は空手を習うだけのことはあって、堂々とした体格の持ち主である。ときどき「ちょっと待って」といいながらノートをとる。
「エクスエラを説明するのにはね、家元制度を説明しなくてはならないでしょうね。あなた日本にも来たことがあると言うし、空手も習っているし、イエモト制度というのは聞いたことはあるでしょう?」
彼女は詳しくは知らないと言い、私はごく簡単にその話をする。
「私、最近日本に行ったの。行ってみるまで神秘的な国というイメージがあった。いろいろな所も行ってみた。京都もね。京都は、本当にすばらしかった。そしてたしかに皆は親切だった。でも何を考えているのかわからないところもあった」
彼女はノートをとるのをやめて、話題を変え、かけていた眼鏡をはずした。
「たしかに期間も短かった。それだけで日本を知ろうとは思っていないけど……でも一ヶ月近くはいたかしら。東京、京都、それと東京から二時間くらい行ったとこ……えーと……大きな都市だったけど、ともかく皆は親切にしてくれてけっこう親しくなったつもり。でも家に招いてくれた人は一人だけよ。人と人とのつながりを大事にするのが日本人と聞いたわ。ギリとかニンジョーっていうのがあるんですって?」
よくそんな言葉を知っている、と私は驚いた。
「そのあなたの言う家元システムというのは人と人とのつながりのうえになりたつわけね。でもどうして? 私はどうして皆の家に招かれなかったの?」
彼女の言いたいことは私にもだいたい推測できる。
「家にいらっしゃいと言われなくても、ガッカリすることはないと思うわ。そうねぇ、いろいろな国どうしが接していて、歴史的に国境線が何度もかわる南米とはちがって、日本はまわりが海でしょ? こちらは百年ちょっと前まで鎖国をしていたわけよ。まあそのおかげで文化的に、うまい具合に発酵した面もあったのだけれどね。自分のグループというか、領域内の人以外とつきあうことの歴史は浅いわけよ。そもそもあなた、日本語というのが独立した言語でしょ。日本語は日本でしか話さないもの。たとえば英語とスペイン語というのは、多くの共通点があるけれど……」
彼女がアメリカ人だったら日本の人の対応はどうだったろう。という考え方が私の頭のなかをかすめた。東京で南米の情報を得ようと図書館や本屋に行ったとき、あまりにもこの地域の文献が少なかったことを思い出していた。
「それからとくに都会はそうだけど、家はここから比べたら格段に狭い。そういうことが何となくはずかしいのね。いや、はずかしいというより、よく説明をしないとわかってもらえないことがある。おそらく東京の中心の一平方メートルの土地の値段を聞いてもあなたは信じないでしょうね、ウルグアイのどんなに広い土地が手に入るかしら、同じお金を払ったら……。
でも若い人たちをはじめとして日本人の外国人に対する態度は確実に変わってきている。ホームステイで外国人を積極的にうけいれる家庭もふえてきたし」
「そうかしら」
「そうよ。だってここ百年の日本の変化は、その前の何百年に比べるとすごいものですもの」
「若い人たちも親切だったけれど、少しこみいった話題になると、話してくれないのよね」
「そう、若い人とか若くない人ということではなく、要するに個人の問題ね。ウルグアイだって同じでしょう?」
少しピントのはずれた答えをしてしまっただろうかと思いながらも、空手記者嬢に私は言った。
「次に日本に来たら連絡してね。家にもどうぞ。ウルグアイからみたら、それこそ小さくてせまいアパートメントかもしれないけど。あ、日本じゃなぜか、マンションというの」
外国の人たちにいけばなを教えている一人として、私は日本が神秘的な国で、本当は外国人には理解できないとするのは好まないが、すべての外国人が話せばわかるとも思っていない。話してもわからない人種は日本人のなかにもいる。私がいけばなを外国人に教えていると言うと、
「いけばなって外人にわかるものなんですかねぇ」
と言う中年男性に、
「それでは日本人のあなたはわかっているのですか」
と言いたくなるときもある。
取材する側とされる側という枠がはずれ、話は個人と個人のあいだのものになっていく。ときには彼女もうなずき、そうかなという表情をしたりして、私はもう少しこの人と話をしてみたいと思うようになる。相手は、少し日本のバックグラウンドがわかったわ、と言って帰っていった。
けれども、私は考えこむ。
いろいろと言ったものの、たとえば、わが家のじゅうたんの敷いてあるリビングルームの、棚の上と下におさまっておられる神様と仏様の関係について、私はこのウルグアイの記者嬢を十分納得させる説明ができるだろうか。それにはまったく自信がないのである。
|